大判例

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東京高等裁判所 昭和54年(ネ)750号 判決 1983年5月31日

控訴人

池田病院こと

医療法人社団睦会

右代表者理事

池田佐嘉衛

控訴人

池田佐嘉衛

右両名訴訟代理人

饗庭忠男

被控訴人

酒井恭子

酒井博章

右法定代理人親権者

酒井恭子

被控訴人

酒井美代子

右三名訴訟代理人

森本宏一郎

古瀬駿介

主文

原判決中控訴人ら敗訴の部分を取り消す。

被控訴人らの請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

事実

第一  申立

一  控訴代理人

主文同旨の判決を求める。

二  被控訴代理人

「本件各控訴を棄却する。」との判決を求める。

第二  主張

左に掲げるほか、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する(ただし、原判決八枚目表七行目「(1)藉慰藉料」とあるのを「(1)慰藉料」と改める。)。

一  控訴代理人

左右の両心系の機能の相異からして、体動による負荷が心臓にかかり、その結果心不全による死亡の結果を招くのは、左心不全による場合が一般的であり、右心不全による死亡というのは比較的希な事態である。ところが、啓行の解剖結果によれば、その左心室には病変が見られず、右心室の心筋間質に限局性の円形細胞浸潤と水腫が認められ、右心室の急性拡張が見られたに過ぎず、このことからすると、啓行の死因を体動の負荷に基因する急性心不全であるとする被控訴代理人の主張は医学的にみて根拠のないものといわなければならない。

かえつて、啓行の右心室に拡張が見られること、肺臓にうつ血を生じ、凝血塊が充満していたことなどからすると、その死因は、肺塞栓(血栓)梗塞症であると考えるのが相当である。

二  被控訴代理人

急死に至るような肺塞栓、血栓症を招来するには、肺動脈内腔の六〇パーセント以上の閉塞を来す程度の大きな血栓の存在が必要とされるのが通常であるが、啓行の解剖時の所見によれば、肺動脈内には巨大な血栓は発見されておらず、また、血栓の発生しやすい膝下静脈、手術部位、小骨盤周囲等にも血栓物質はいうに及ばずフィブリン(線維素)すら検出されていない。更に、肺動脈枝内に充満していた凝血塊も、血栓がその後投与された強心薬、輸液等によつて破砕されたものとするには、その量が少なすぎる。

これらの点からして、啓行の死因を肺塞栓血栓症とする控訴代理人の主張には、理由がない。

第三  証拠関係<省略>

理由

一被控訴人らが訴外亡酒井啓行の妻、子あるいは母であること、控訴人医療法人社団睦会が医療事業を目的とする法人であつて、肩書地において池田病院を経営する者であること、控訴人池田佐嘉衛が右法人の理事の地位にあるとともに、右病院の医師として患者の治療に当つている者であること、啓行が昭和四八年八月一八日右池田病院に入院し、同日同病院において胃、十二指腸の切除手術を受け、手術後九日を経た同月二七日、病室を変更するため階段を登つているところで突然意識を失つて倒れ、同日午後五時四〇分ころ同病院で死亡したことについては、当事者間に争いがない。

二そこで、啓行の死因について判断する。

1  <証拠>によれば、千葉大学医学部病理学教室に所属する医師である右岩崎は、昭和四八年八月二八日、控訴人池田からの依頼により(ただし、形式的には千葉県医師会からの依頼によるとの手続が後にとられた。)、啓行の病理解剖を行い、以下のような解剖所見を示すとともに、この所見に基づき、啓行の死因を、十二指腸穿孔による亜急性汎腹膜症が心臓に波及して心筋炎を招来し、これに急激な体動が誘因となつて心臓(とくに右心室)に過重な負担が加わつて起つた急性心不全であると診断したことが認められる。

(一)  肺臓 両側肺の急性うつ血、水腫(肺動脈枝内への凝血塊充満と肺胞壁毛細血管の高度のうつ血、水腫)。両肺上葉の肺気腫。

(二)  心臓 心筋炎を伴う右心室の急性拡張(滴状心)、右心室心筋間質への限局性円形細胞浸潤と水腫。

(三)  亜急性汎腹膜炎 骨盤腹膜下結合織内の好酸球浸潤を含む多数の炎症性細胞浸潤及び腸管漿膜の線維性肥厚と円形細胞浸潤。

(四)  膵臓 感染脾と線維素性脾周囲炎、うつ血、脾洞内への炎症性細胞浸潤。

(五)  肝臓 高度のうつ血と脂肪化。

(六)  食道粘膜下、胃粘膜下、腸管粘膜下、膀胱粘膜下、腎臓等のうつ血。

2  しかしながら、<証拠>によると、啓行の死因を体動による心臓への負荷が原因となつて起つた急性心不全であるとする右岩崎の診断には、次のような疑問があることが認められる。

(一)  一般に心不全とは、心臓の機能が低下し、血液を体内のすみずみにまで十分に送り出すことができなくなる症状をいうものであるが、心臓の左右の両心室のうち、頭部、腎臓、肝臓等の身体の重要部に血液を送り出す機能を果しているのが左心室であり、従つてこの左心室の機能の低下は生命に脅威を与える重大事態につながる性質を持つのに対して、右心室は身体各部から戻つて来た静脈血を肺循環に送り込む機能を果しているに過ぎないため、この右心室の機能の低下は直接生命に対する悪影響にはつながり難い。とくに体動による心臓への負荷が原因となつて生ずる急性心不全の場合には、左心室に何らかの病変が認められるのが通常である。

ところが、啓行の剖検結果によれば、前記のように、右心室には心筋炎を伴う急性拡張、心筋間質への限局性円形細胞浸潤と水腫といつた病変が認められたものの、左心室にはとり立てて目を引くような病変は認められなかつた。

(二)  本件のように、突然意識を失つてけいれんが起るという状態は、その原因が心臓の病変にあるものとすると、心室細動のため脳の血行停止が急激に生じた場合に発生する事態であるが、この心室細動による意識喪失の場合には、心電図の上に基線が不規則に揺れる所見が記録されるはずである。しかしながら、啓行が意識喪失を起して倒れた直後にとられた心電図には、そのような所見は記録されていない。

また、体動による心臓への負荷が原因となつて心不全が生じた場合には、その心電図に頻脈の状態が記録されるのが通常であるが、啓行が倒れて直後にとられた心電図には頻脈は現れておらず、むしろ極端な徐脈が記録されている。更に、前記のように体動による心臓への負荷が心不全の原因となるのは、左心室への負荷による場合が通例であり、この場合には、心電図に左脚ブロックと呼ばれる波形が現れるはずであるが、啓行が倒れた直後の心電図には左脚ブロックの波形は現れておらず、逆に右脚ブロックの波形が記録されている。

(三)  心筋炎が心不全につながるためには、それがかなり重症のものでなければならないが、啓行の剖検結果にみられる右心室の心筋炎の程度はさほど重症のものではない。また、このような心不全につながるような重症の心筋炎では、患者にかなりの重病感があるのが普通であり、また殆んどの場合頻脈の発生がみられるはずであるが、啓行の場合にはそのような事実が認められていない。また、八月一八日実施の手術の直前にとられた心電図でも、特段の異常は認められていない。

(四)  啓行が死亡の直前に病室を変更するために階段を上つた際の運動量を臨床的に心臓病の診断を行う場合に一般に用いられているマスターの二階段試験での運動量と比較してみると、啓行の運動量はマスターの試験の場合の二分の一以下の程度のもので、これによる運動負荷はごく軽いものであつたと推定され、この程度の運動負荷が心不全を惹起したものと考えることにも疑問がある。

3  他方、控訴代理人は、啓行の死因は、肺塞栓(血栓)梗塞症であると主張しており、<証拠>によれば、啓行の剖検結果や心電図等にみられる以下のような所見は、啓行の死因が肺塞栓血栓症であるとすれば、次のとおり合理的に説明することが可能なものと認められる。

(一)  剖検結果によると、右心室に急性の拡張がみられるとともに、両側肺の急性うつ血、水腫、肺動脈枝内への凝血塊充満、肺胞壁毛細血管の高度のうつ血、水腫といつた所見がみられるが、左心室に病変がみられないことからすると、これは静脈に入つた血流が、肺循環系内で通過障害に会つたために生じたものと考えるのが合理的である。この通過障害として最も多くみられるのは、肺動脈系の血栓、塞栓である。

(二)  啓行が倒れた直後の心電図では、右心室の電流が正常に流れないときに生ずる右脚ブロックと呼ばれる波形が記録されており、これは右心室に負担がかかり、右心室が引き伸ばされていることを示すものであるが、これは、肺循環系に通過障害が生じ、右心室からの血流が流れて行かない状態になつていたとすれば、合理的な説明のつく現象である。

(三)  同じく啓行の倒れた直後の心電図では、QRSと呼ばれる波形の巾が狭くなつているが、これは、心筋にはなお正常に近い収縮力が温存されていた可能性が高いことを示すものである。ところが、啓行が倒れた直後には、橈骨動脈の搏動に触れることができなかつた旨の記録があることからすると、右心室からの血流が途中で途絶えて、左心室からの血流になつて体内に流れて行かない状態になつていたものと考えられる。このような事態は、肺動脈系に塞栓血栓症が生じ、肺循環の中で血流が途絶していたとすると合理的な説明のつく現象である。なお、啓行が倒れた後も、輸血、輸液は行い得ているが、このことも啓行の右心系自体は機能していたことをうかがわせるものである。

4  もつとも、前掲の証人岩崎の証言によれば、肺塞栓梗塞症の場合、通常死亡例には巨大血栓が見られる例が多いところ、右岩崎は、啓行の解剖に当り、その死亡時の状況等から肺塞栓梗塞症の可能性も少なくないことを念頭において解剖を施行したにもかかわらず、血栓の最も生じやすい膝下静脈、手術部位、小骨盤周囲等にも、血栓物質はいうに及ばず、線維素すら検出されていないことが認められ、また、<証拠>によれば、肺疾患の場合には、喀血、咳、喀痰などの症状があり、また肺塞栓には発熱、頻脈などの徴候を伴う例が多いのに、啓行の場合にはそのような症状、徴候がみられなかつたことが認められる。

しかしながら、<証拠>によれば、塞栓、血栓の発生が急性に起り、啓行の死亡当日の夕刻にはじめて有意な肺血管閉塞に達したものと考えると、死亡前に肺疾患の特有の症状や徴候がみられなかつたことの説明は可能であり、また、このようにして発生した血栓が新鮮で柔らかくもろいものであつたため、倒れた後の治療の際の強心薬の投与や輸液、輸血のために砕けて飛び散つたものと考えると、解剖時に大きな血栓が検出されなかつたことの説明も可能なものと認められるので、このような事実のみから啓行の死因が肺塞栓血栓症であるとの可能性を否定し去ることはできないものと考えられる。

5  以上の事実を総合すると、啓行の死因が体動による心臓への負荷が原因となつて起つた急性心不全であるとするには、なお大きな疑問があるものというべきであり、むしろ控訴代理人の主張するように、肺塞栓梗塞症がその死因であつたのではないかとの疑念をも払拭し去ることができず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

三そうすると、控訴人池田が啓行を急激に体動させることによりその心臓に過重な負担を与えたため啓行を急性心不全によつて死亡させたことを前提とする被控訴人らの本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく失当であるから、これを棄却すべきである。

よつて、原判決中控訴人ら敗訴の部分を取り消し、被控訴人らの本訴請求を棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法九六条、八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(中島恒 塩谷雄 涌井紀夫)

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